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八月十五日 [独り言]

終戦記念日に際して、昭和二年生まれだった父親の言葉をちょっと思い出してみました。

「昭和二十年八月十五日は暑かった。」
玉音放送に関しては、何言ってんだかよくわからないかったようです(笑)
後年映画化された「日本の一番長い日」を見ますと、そこに至るまでにとんでもない事が起こっていたことがわかります。

「アメリカに勝てるとは思わなかったが負けるとも思わなかった。」
これは父親の中の常識というものと、学校で教わった軍事教育の結果、こういった結論になったのだろうと思います。
まさに教育というものの恐ろしさだと思います。

「三月十一日の空襲は火消しに追われた。」
当時父親の住んでいたのは王子区(今の北区)の十条でして、東京の本所や深川のあたりはほぼ全域が消失しましたが、ぎりぎり北の外れの位置に居住していたため消火活動で家を守れたそうです。
ただ消火活動は大変だったようで、この話は何故か笑いながら話していたのが印象的です。
恐らく、その時の自分自身の必死の行動が、客観的に見たとき滑稽に映ったのかもしれません。

さてさて、実際に上の兄たち四人は戦争に行っていたので、父親も志願したそうですが、体重が足らず合格には至らなかったとのこと。ただ志願した同級生が戦死したことは寂しそうに話していました。

ちなみに兄弟たちは全員帰ってきたそうで、まさに驚きの連続だったそうです。
しかし、兄弟たちに聞いた話では、トラックが無かったために最前線に移送されずに助かったなど、ある意味「運がよかった」という奇跡のような話だったそうです。

晩年、がんの告知を医師からされ、入院先で落ち込んでいた父親に「いいじゃねぇかアメリカ兵に撃ち殺されるより。」と冗談交じりに言った言葉に「そうだよなぁ。」と言った父親の声が今も忘れられません。

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旅爺さん

爺もB29の大編隊が飛来したとき探照灯で夜空の
飛行機を照らしてたのを防空壕から眺めてたのを
憶えています。空襲の次の日町は一面焼け野原でした。
by 旅爺さん (2021-08-17 18:01) 

gonntan

戦争に至る道では国民も繁栄の夢を見るんですよね。中国侵略でも提灯行列でお祝いしたとか、勝ってるときは何でもありです。将校同士が「シナ人を百人切りする競争をしている」とかの新聞記事も、やんやの喝采をもって迎えられる。戦後そんな事実はなかったと、将校の遺族が名誉毀損で訴えていますが。戦時中はあだ花を見て浮かれていたんですね。そうでもなければあんな戦争はできませんね。
by gonntan (2021-08-19 22:13) 

momotaro

お父様の思い出話、いいですねぇ。
私の親父は大正5年生まれ。肺炎を患ったことがあったらしく戦地に行ってません。空襲は運良く遭わなかったようで、生々しい話は親父からは聞けませんでした。
代わりに祖母が千葉でも熊谷でも空襲に遭ったそうで、時々話してました。
勝ち目がなくなっても、特攻隊だの人間魚雷だのと、若者の命を一顧だにしなかったことが許せません
by momotaro (2021-08-23 17:43)